ケチャップさなえドリル

フィクションの練習帳

 あの人のことは好きじゃない。気持ちが冷めてしまった。最初から好きじゃなかったのかもしれない。よく分からない。最近のわたしは自分の感情に自信がもてない。それは自分と関係のない場所からわいてきた水みたいに思える。感情は不思議な泉だ。一時間後には変わっている感情を、どうして自分のものだと思わなきゃいけないんだろう。
 すこし前までは思いこんでいた。わいてくる感情に責任を感じていた。今は感じなくなった。雨が身体をぬらす。感情も身体をぬらす。わたしとは関係がない。そう思うとすっきりした。身体のなかに泉がある。そこから感情がわいてくる。垂れ流せば消えていく。ああ、死にたい。この死にたさも感情なんだろうか。それなら感情に振りまわされていた頃のほうが元気だった。わたしは自分の内臓を見たことがない。たいていの人間は死ぬまで自分の臓器を目にしない。それでよく信用できるな。胃袋を見ず、心臓を見ず、しかし信用はする。きっと今日も明日も動くと、いつか病気になるその日まで。
 話が暗くなってきた。悪いくせだ。恋人の話のほうがいいだろうか。すでに別れたから昔の恋人と呼んだほうがいいかもしれない。しかしわたしはあの存在を歴代の恋人にカウントしたくない。意味のない細部ばかり記憶に残っている。思い出すのは恋人のわき毛だ。あの人が上に乗って頑張っているとき、わき毛ばかり見ていて、一度、それをつまんでみたことがある。じゃれつきだと解釈されたらしく、うれしそうに頭をぽんぽんされた。わたしは冷えた心のまま見つめていた。むしりとってやりたくなる。わきの下の密集地帯に手をつっこんで、何の共感もなしに、ぎゅっとつかんでむしりとる。わき毛の強奪、そのまま散布。崖の上から、ぱらぱらぱら。ああ、くだらない。死にたい。

 噴水のある泉の前を通過した。わたしはこの泉に一度だけコインを投げいれたことがあるけれど、その帰り道で犬のくそを踏んだから、この泉のことは信用していない。投げたコインは日本の硬貨ではなかった。友達からもらった外国の硬貨で、南米のどこかの国だと言っていたが、わたしは国名を記憶することが得意ではない。ブラジル? それだったら、さすがに覚えている。アルゼンチン、チリ、エクアドル。うそ? 南米の国、もう出てこない? 想像以上にわたしは知らない。地理の授業は熟睡していた。今になって後悔している。ばかは恥ずかしい。わたしはいやだ。

 噴水の近くにいたカップルは、ずっと話しこんでいて、女のほうはよく笑い、上くちびるがめくれるたびに一定面積の歯ぐきが見えて、それは一般的な美的感覚からすれば見えすぎた歯ぐきなのだけれど、男のほうはこの歯ぐきを好きだろうか、嫌いだろうか、夜はこの歯ぐきに人さし指を付けて、右から左にすーっと動かすだろうか? わたしは、恋人がたまにセックスのときに口のなかに指を入れてくることを、どう評価すればいいのか分からなかった。あれは愛情表現だったんだろうか。

 むかし、友達の友達の恋人が後ろからするときに友達の友達の尻をたたくから困っている、と友達が言っていた。へたくそな文章だ。考えてから書こう。友達にきいたのだ、友達の友達の話を、その子の恋人は、だから友達の友達の恋人という表現になるのだけど、その友達の友達が友達の友達の恋人とセックスをするときに

 自分でもよく分からなくなってきた。もういい。

 わたしは、友達から友達の友達の話をきくことが好きだ。自分には関係ないから気楽だし、しかし友達の友達だから一定の実在感はあって、ちょうどいい。

 恋愛は都市伝説な気がする。

上田啓太
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